ShoGのボヤキ念仏

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<<   作成日時 : 2012/08/10 20:26   >>

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 人の暮らしには幸運と不運とが付いて回る。誰にでも,幸福を感じるときと不幸だと思うこととが在る。しかし,人に与えられる幸運や幸福は限られていて,一人の人間に常に満ち溢れているものではなく,生涯を通して見れば,平均して平等に与えられるものではないかと思う。平和な社会での日常であれば,それが自然の配剤というものではなかろうか。中国の古書で「禍福は糾える縄の如し」(史記)と言うのも,そのことを指しているのだろう。
 日本の古語では,「羨し」を「ともし」と読み,「乏し」に通じるという。自分が満たされない欠乏感から,満たされている他者を羨む気持ちが生じるということだ。しかし,外から見れば羨ましいと思われる人でも,別の面では欠乏を感じていることも有ろう。他者を羨むよりは,その人が併せ持つ欠乏感を思い遣ることのほうが必要だと思う。
 身体の不自由な人を,近年では,欧米に発した言葉で「challenged」と表すけれど,それは「挑戦」を意味するのではなく,「“challenge=能力や努力を要するやりがいの有ること”を行うよう,とりわけ要求されている」という受け身の意味で,キリスト教文化圏では「(神より)試練を与えられた」という肯定的なニュアンスで用いられるということを,もう10年近く前に,英語の用法に詳しい息子から教えられたことが有る。したがって,身体障害者だけでなく,誰でも日常的に当面する「試練を与えられている状態」を表し,身体の障害を意味する場合,「physically」を冠することで区別するという。そうであれば,私もまた,今も「challenged」であるにちがいない。
 昨年還暦を迎えた知友からの便りを受け取った。17年前に,まだ若くして子息を喪ったことに触れて,今の思いを綴っていた。「今なお,悲しみが癒えたり忘れたりすることは無く,姿が見えなくなっても息子は息子であり,息子の魂の存在を己が信じ,それを支えに生きていけば良い。17年の歳月は,それに気が付くのに必要な時間であったと思う」という趣旨の述懐だった。彼も「challenged」として,この17年を生きてきたのだ。
 わが身の不運を嘆き,他者を羨むだけでは,得られるものは何も無かろう。たいせつなのは,自分の置かれた情況をどう受け止めるかという心の問題だと感じる。
 しかし,それにしても,心の持ち方だけではどうにもならないのが,政治のあり方に因って追い詰められ貧窮する暮らしの問題で,こればかりは,先行きの暗さを思い,身の不幸を嘆くしかない。

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