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zoom RSS 大島渚逝く

<<   作成日時 : 2013/01/22 19:21   >>

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 大島渚が亡くなった。昨年来,多くの訃報に接するたびに,「大島渚はどうしているのだろうと」思っていたので,「とうとう亡くなったか」という印象が強い。亡くなるのを待っていたわけではないけれど,1996年に脳出血で倒れて以来17年,克己的なリハビリによって,最後の作品となった『御法度』(2000年)を撮ってからでも13年が経っている。その間,小山明子夫人の献身的な支えによって車椅子生活を続けていると聞いてはいたが,近況の伝わらない長い空白の期間だった。今となっては,惜しまれて逝くと言うよりも,生を全うしたと言えるかもしれない。
 大島は,6歳のとき.彼自身が「人生最初の喪失」と言う父親の死に直面し,以後,京都で母親と暮らした。伝え聞く彼の少年時代は,8歳で父を喪った私の暮らしと重なっている。しかし,私は,「大島渚」にはなれなかった。私には,大島のような不屈の闘志が無かったからだ。私は人生の狭間で虚無的になり,闘うよりも諦めることが早く,成り行きに随い妥協する途を選んだ。大島は,その生涯を通して,何事にも自分を押し出して立ち向かっていく意欲的な「闘い」の姿勢を貫いた。
 その追悼番組として今回再放送されたBS朝日2000年12月制作の『大島渚の闘い!』の中で,インタビューアーに対して,「(ほかの奴のことなんか)知らないよ!」「そんな話をしてる暇は無いんだよ!」と苛立ちの語気を強めている彼の激しさに打たれる。
 1954年,松竹に入社,異例の早さで監督に昇進し,当時の映画界に「風穴を開ける」話題作を作り続けたものの,『日本の夜と霧』(1960年)の上映打ち切りが有り,61年には会社に反旗を翻して「創造社」を設立したが,73年には「創造社」の同志との縁を断ち切る。「50歳になって全く別のことをやってる為には、ここで1人になって、ゼロから出発しなきゃいけない」という思いであったという。その思いとも重なるものを感じるけれど,私には,彼のようなバイタリティが無かった。思えば,少年時代に染み付いたニヒリズムと,家族との平穏な暮らしを第一にする気持ちが,私の人生を終始左右してきたと言えよう。
 今,私には終に出来なかったことが,音楽ディレクターと大学准教授の二人の息子には,それぞれの途でいくらかは出来ているように感じる。暮らし向きは厳しくても,何とかやり通してほしいと願う。さらに願わくは,小山明子のような伴侶を得てほしいものだ。

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