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zoom RSS 瀬戸内少年歌謡曲史

<<   作成日時 : 2018/03/07 15:46   >>

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 阿久悠に関わる思いを先日(2月12日)書いたばかりだが,阿久悠がその著書の中で語る時代と歌の歴史は,そのまま,私も共有する時代と歌の姿であり,取り上げられた歌は,想い出とともに自然に湧いて出る歌ばかりなので,先日触れていないことについて,かつて掲載した文章の引用を含めて,もう少し書いておきたい。
 阿久悠は『瀬戸内少年野球団』(1979年)の中で書いている。「(戦争が終り、年が明け、昭和二十一年の夏ともなると)町の人々自らが芝居をすることが流行になったのだ。」「演し物は、大抵流行歌に材をとったもので、第一幕、舞踊劇、第二幕、のど自慢、第三幕、やくざ芝居というのが通常の構成だった。」
 阿久悠は淡路島の出身だが,私の暮らしていた島でも,復員してきた青年たちが中心になった素人演芸会が,仮小屋のような所で盛んに演じられ,のちに週に一度くらいの割合で巡回してくる映画が上映されるようになるまでは,それが村人たちの最大の娯楽だった。(2011年10月19日「阿久悠と歌謡曲」)
 「『そして、そこで歌われる流行歌が、何故か、『長崎物語』と『港シャンソン』と『勘太郎月夜唄』に限られている。』と,阿久悠は書いているが,私の中に在る当時の流行歌も,『誰か故郷を想はざる』(西条八十作詞・古賀政男作曲 1940年)であり,『長崎物語』(梅木三郎作詞・佐々木俊一作曲 1938年)や,『勘太郎月夜唄』(佐伯孝夫作詞・清水保雄作曲 1943年)だった。『湖畔の宿』(佐藤惣之助作詞・服部良一作曲 1940年)も含めて,いずれも戦中に作られた歌ばかりで,戦後最初の大ヒット曲『リンゴの歌』(サトーハチロー作詞・万城目正作曲 1946年)は,そのころの私の記憶の中にはまだ無い。」
 『愛すべき歌たちー私的歌謡曲史ー』(阿久悠・岩波新書1999年7月発行)では,その「あとがき」に記されていることが私の想いにつながる。
 「新聞連載第一回に『湖畔の宿』を書いたら、ずいぶん多くの知人たちから、あれは意外だったと言われた。当然『リンゴの歌』から始まると思っていたと言うのである。」「しかし、ぼくは、きわめて個人史からスタートして、やがて社会史に繋がっていく書き方をしたかったので、(中略)これによって、全体の書き方、歌の捉え方は決したのだが、その代わり『リンゴの歌』が入り込む余地がなくなってしまったのである。」「戦後の歌は、『リンゴの歌』からというのが定説であり、常識であるが、ぼくらにとっては、間違いなく、『妻恋道中』とか、『裏町人生』とか、『旅姿三人男』とか、『流転』とか、『勘太郎月夜唄』とか、戦前、戦中に発売され、戦時下の国情にも意識にもそぐわないとして封印されていたアウトローの歌であった。」同じ瀬戸内海ではあっても,県の異なる離れた島で全く同じ時が流れていたのは不思議なことにも思われる。
 『勘太郎月夜唄』は、1943年の映画『伊那の勘太郎』(監督=滝沢英輔)の主題歌で,当時としては珍しくヤクザを主人公にした作品だ。そのころ私はまだ疎開前だったので,月に一度だけという母との約束で映画を観に連れて行ってもらっていた。毎月の上映予定を前もって調べて選んだ映画は,『轟沈』,『勝利の日まで』,『加藤隼戦闘隊』など,戦争を題材にしたものばかりだった中で『伊那の勘太郎』は異色と言える。ここに挙げた作品には全て主題歌が有り,中でも『加藤隼戦闘隊』(作詞=田中林平・朝日六郎,作曲=原田喜一・岡野正幸)は,疎開して映画とは無縁の暮らしになったあとも,敗戦に至るまでは私の十八番にしていた曲だった。
 1〜3番から4番に入ると,それまでの勇壮な曲が転調して哀感を帯びる。「干戈交ゆる幾星霜/七度(ななたび)重なる感状の/勲(いさお)の蔭に涙あり/ああ今は亡き武士(もののふ)の/笑って散ったその心」。5番では「世界に誇る荒鷲の」「われらは皇軍戦闘隊」と勇壮なマーチに戻るのだが,唄うとき4番に思い入れが深かったのを覚えている。

 話を戦後に戻すと,村の青年団の演芸会でいつも『別れ船』(作詞=清水みのる,作曲=倉若晴生 1940年)を唄った女の子がいた。そのころの学校はまだ男子と女子とでクラスが分かれていて,彼女は女子組の級長で,男子組の級長が私だった。級長同士ということで,男子組の悪童たちは彼女と私とを結び付けて冷やかしの対象にしていたけれど,二人は一度も言葉を交わしたことも無かった。しかし,私の心の隅のどこかで彼女の姿を意識していた。その彼女も疎開者だったので,戦争が終わると間も無く,小学校を卒業する前に村を去って行った。彼女の乗った瀬戸内海航路の蒸気船が村の港を離れて行くとき,一抹の感慨を持って密かに見送ったことを,のち(1984年)に映画化された『瀬戸内少年野球団』(脚色=田村孟,監督=篠田正浩)の一場面と重ねて思い出す。
 映画や歌謡曲がらみで 思い出を辿りはじめるときりが無くなるので,またの機会に書くことにしよう。

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内 容 ニックネーム/日時
千恵蔵と原節子をりキネマ館 三本指の幟はためく
いざよひ
2018/03/08 19:49
宿場にも戦地にまでも飛んで出る アノネオッサンワシャカナワンヨ(高勢実乗)
返し
2018/03/09 10:01
深読み勝手解釈 <片岡千恵蔵、原節子、三本指>でネット検索すると<三本指の男、昭和22年東映映画、原作横溝正史、金田一耕助シリーズ第1作>とあり、千恵蔵が金田一、助手の原節子がメガネ姿で出演しておりました。「三本指」の血塗りの手形が「はためいて」いたのでありましょうか。
岡目七目
2018/03/09 19:41

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