今野勉著『テレビの青春』
今野勉著『テレビの青春』(2009年3月30日・NTT出版発行)を興味深く読んだ。1959年に大学を出てラジオ東京テレビ(現・TBS)に入社,テレビ演出部に所属して以来の体験を綴ったものだが,体験に基づくテレビ論や業界事情が述べられているとともに,同期入社の実相寺昭雄(のち映画監督),並木章,高橋一郎,村木良彦,中村寿雄,阿部昭(のち作家)をはじめとして,のちに同志となる萩本晴彦(1963年ラジオからテレビに転じた)らを含む,主としてTBSを舞台にしたテレビ人列伝でもあり,1960年代のテレビ風雲録の趣が在る。
今野氏がテレビディレクターとして独り立ちしたのは,1963年の『太陽を探せ』シリーズ(5作担当)からで,1965年に『土曜と月曜の間』でイタリア賞を受賞後,当時の人気シリーズ『七人の刑事』(1968年まで放映)を担当して,「葉子の証言」,「白い少女」(1965年),「波止場」(1966年),「ふたりだけの銀座」,「美しい女たち」(1967年)など,シリーズ中の話題作を次々に制作した。
その間に今野氏が感じたこと,考えたことは,
「テレビは、瞬時に、大量に、連続して、映像を伝達できるという技術的特性があり、その運用には、巨大な装置と組織を必要とする。放送における創造者は、したがって、常に組織人であることを要求され、その創造行為は、組織の中での日常的作業となる」(第七章 テレビの黄金時代を振り返って)
「マスメディアの中のサラリーマン・ディレクターにとって、番組は何なのだ、ということ」(第八章 TBS闘争は青春の終わりだったのか」)
だったと言うが,その裏付けとして在る個々の作品(今野作品だけでない)についての制作事情や反応の詳しい記述が,また興味深い。
1968年の「TBS闘争」を経て,1970年,「制作者が資本を出し、制作者が経営するという、制作者のための組織」として,日本で最初のテレビプロダクション「テレビマンユニオン」を,吉川正澄,村木良彦と語らって創立,『ハットピンキー』(ピンキーとキラーズをレギュラーとした音楽番組),『遠くへ行きたい』(当初は永六輔を旅人とした,ドキュメンタリー旅番組),『海は甦る』(江藤淳原作の3時間ドラマ・1977年)などを演出,1998年の長野冬季オリンピックでは,開会式の五大陸宇宙中継と閉会式のプロデューサーも勤めた。
TBSを退社して「テレビマンユニオン」を創立したときのことについては,
「自分でやりたいこと、やるべきだと思ったことを自分で選んだ限りは、それに全力を尽くす。それだけだった。辞めるのはリスクが大きいのでは、とか、うまくいくかどうか、とか、うまくいかなかったらどうしようか、とか、私の脳裏には一切浮かばなかった。」(第九章 青春の終わりの始まりに)と言う。
余談ながら,同世代である私も,職種や事情は異なるけれど,1971年に,大学卒業後11年勤めた職場を辞めて他の職に移った経験が有り,今野氏の回想に共感するところが少なくない。
今野氏は「あとがき」で,「一年余り経った頃、ふと私は気づいた。彼(注:著者に執筆を勧めた,TBS発行『新・調査情報』の1997年当時の編集長・田澤正稔氏)はただ過去の話を語れと言っているのではないのだ。あの時代に何があったかを思い出すことが、今のテレビも必要になっているのだ、という切迫感があるからこそ、彼はこんなにも執拗になっているのだ。」 と記しているが,今のテレビ界が抱えている問題にも通じるものが多々有ると思われる。
今野氏がテレビディレクターとして独り立ちしたのは,1963年の『太陽を探せ』シリーズ(5作担当)からで,1965年に『土曜と月曜の間』でイタリア賞を受賞後,当時の人気シリーズ『七人の刑事』(1968年まで放映)を担当して,「葉子の証言」,「白い少女」(1965年),「波止場」(1966年),「ふたりだけの銀座」,「美しい女たち」(1967年)など,シリーズ中の話題作を次々に制作した。
その間に今野氏が感じたこと,考えたことは,
「テレビは、瞬時に、大量に、連続して、映像を伝達できるという技術的特性があり、その運用には、巨大な装置と組織を必要とする。放送における創造者は、したがって、常に組織人であることを要求され、その創造行為は、組織の中での日常的作業となる」(第七章 テレビの黄金時代を振り返って)
「マスメディアの中のサラリーマン・ディレクターにとって、番組は何なのだ、ということ」(第八章 TBS闘争は青春の終わりだったのか」)
だったと言うが,その裏付けとして在る個々の作品(今野作品だけでない)についての制作事情や反応の詳しい記述が,また興味深い。
1968年の「TBS闘争」を経て,1970年,「制作者が資本を出し、制作者が経営するという、制作者のための組織」として,日本で最初のテレビプロダクション「テレビマンユニオン」を,吉川正澄,村木良彦と語らって創立,『ハットピンキー』(ピンキーとキラーズをレギュラーとした音楽番組),『遠くへ行きたい』(当初は永六輔を旅人とした,ドキュメンタリー旅番組),『海は甦る』(江藤淳原作の3時間ドラマ・1977年)などを演出,1998年の長野冬季オリンピックでは,開会式の五大陸宇宙中継と閉会式のプロデューサーも勤めた。
TBSを退社して「テレビマンユニオン」を創立したときのことについては,
「自分でやりたいこと、やるべきだと思ったことを自分で選んだ限りは、それに全力を尽くす。それだけだった。辞めるのはリスクが大きいのでは、とか、うまくいくかどうか、とか、うまくいかなかったらどうしようか、とか、私の脳裏には一切浮かばなかった。」(第九章 青春の終わりの始まりに)と言う。
余談ながら,同世代である私も,職種や事情は異なるけれど,1971年に,大学卒業後11年勤めた職場を辞めて他の職に移った経験が有り,今野氏の回想に共感するところが少なくない。
今野氏は「あとがき」で,「一年余り経った頃、ふと私は気づいた。彼(注:著者に執筆を勧めた,TBS発行『新・調査情報』の1997年当時の編集長・田澤正稔氏)はただ過去の話を語れと言っているのではないのだ。あの時代に何があったかを思い出すことが、今のテレビも必要になっているのだ、という切迫感があるからこそ、彼はこんなにも執拗になっているのだ。」 と記しているが,今のテレビ界が抱えている問題にも通じるものが多々有ると思われる。
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