余生

 各地で市民マラソンが催される季節だ。都心を走る初めてのマラソンとして話題になり,数万人の参加者で盛り上がった東京マラソンは別格として,私の住まう市や近隣の市でも,それぞれ毎年催され,近年のマラソン人気を反映して,年々盛んになってきている。その告知を見るたびに,私も,かつての気分が蘇り,出場したい思いにそそられる。もちろん,気持ちだけのことで,実際に走れる体力は已に無いと自覚しており,出場すれば,救護班の世話になるのがオチだろうから,夢想で終わることだ。
 団塊の世代が大量に定年を迎える時期を狙ったものか,さまざまな資格取得や趣味の講座の広告を目にすることが最近特に増えた。私も,もう10歳若かったら,修得したいと思う講座も有るけれど,今からでは,修得したところで,それを生かすにはもう遅い。だからといって,10年前は,そんな学習をする余裕は無かった。
 政治や行政の実態を見ていると,国政に,とまでは言わないが,地域社会の向上のために,市長か,せめて市議会議員の選挙に出てみたい気が起こる。しかし,これも已に齢を取り過ぎていて,当選するだけの支持は得られないにちがいないから,思うだけのことだ。
 全ての実務から退いた今は,実現の可能性の無いことを思ってみるばかりで,無為に日を過ごしている。これこそが「余生」というものなのだろうか。
 辞書によると,「余生」とは「(活動期を過ぎた)生涯の残りの部分。」(岩波国語辞典)とあるが,もはや「余生」に入っていると思うと,同時に,これまでの人生を顧みて,自分の存在にどれだけの意味が在ったのだろうかと疑うことが有る。
 子として,親としては,一本の線に繋がった必然的な存在で,今さら意味を問うまでもなかろうが,夫婦となると,もともとは他人同士が偶然の機縁で結ばれたものだから,妻にとって,私が夫でなければならなかったことだろうか,他の人でも良かったのではないか,そして,彼女には別の人生も在り得たのではないか,とも思う。しかし,子どもにとっては,父親も母親も,それぞれに血の繋がった存在であり,特に生身の体を通して繋がった母親との関係は深いはずだから,今は,疑うべきことではなかろう。
 ところが,仕事のことになると,かつて携わったいくつかの職場にしても,地域でのボランティア活動にしても,私がいなければならなかったことだろうかという疑いが,今にして湧く。その場では,常に先頭に立って,組織としての理想を追求する働きをしてきたつもりだし,組織を担った時期も有ったと自負しているものの,私がいなかったら,いなかったなりに,組織は機能して,それなりに存続したことだろう。現に,私が辞めたあとも,組織は潰れることなく存続している.
 ということは,その時々で,やりたいことをやり,自分の意志を貫いてきた人生ではあるものの,他者にとっては,必ずしも私の存在が不可欠のものではなかったということになろう。そんなことを思うのもまた,活動する場の無くなった「余生」に感じる寂しさである。

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