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ShoGのボヤキ念仏

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ShoGのボヤキ念仏
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今や念仏三昧の日々の合間に湧く断片的な雑念を,直感のまま投げ出したものです。
──日々の主な行動の記録と,言葉を尽くした随想や論考,Photo,Songなどは,ホームページで別に掲載しています。  
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耳がだんだん遠くなる

2012/01/29 19:12
 市の文化施設で催された「字幕つき『たそがれ清兵衛』上映会」に出かけてみた。「聴覚障害者やお年寄りら耳の不自由な人たちは、字幕がないとわからないと日本映画を敬遠しがち。字幕をつけてほしいという要望に応えた」(2003年5月3日付「朝日新聞」南京都版)もので,昨年度の日本映画の各賞をほとんど独占した作品だけに,その試みの意義は大きい。
 しかし,いくらか耳が遠くなったとは言え,聴覚に大きな障害の無い私にとっては,何となく消化不良の気分にさせられる観賞になった。どうしても字幕に視線を取られて,映像や俳優の科白への集中が妨げられてしまうのだ。外国語の映画であれば,字幕が欠かせないし,科白と字幕とが重なって自然に頭に入ってくるのだが,これは,字幕の文字が大き過ぎ,しかも,背景の音の説明まで入るので,映像を十分に味わえない欲求不満が残った。
 もっとも,文字が大きいのは,お年寄りに対する配慮だろうし,字幕を付けた意図を思えば,私が自分の勝手で不満を言うべきことではない。むしろ,映画を観賞する上で,耳が聞こえ,目の見えることの至福を,更めて感じることでもある。
*  *  *
 松竹・日本テレビ・住友商事・博報堂・日本出版販売・衛星劇場製作(松竹配給)『たそがれ清兵衛(字幕版)』山田洋次監督作品を観た感想の中で記している(2003年5月11日)ことだ。 http://www7a.biglobe.ne.jp/~say/eiga.04.html
 ところが,8年余が経った今の私は,テレビドラマでも映画でも科白が聞こえ辛くなり,それを思うと,映画を観に出かける意欲も削がれてしまう。
 人との会話であれば,その都度聞き返すようにしている。どうでもいいことだと思うときは,聞こえたふりで聞き流す。聞こえなかったと思われたほうが良い場合も有る。しかし,ドラマで繊細な心の動きを表す台詞が十分に聞き取れなくては,鑑賞の妨げになることが大きい。生きる上での楽しみがだんだん狭まってくる。
 これを書きながら,野口雨情作詞・中山晋平作曲『あの町この町』の「お家がだんだん遠くなる」というフレーズを思い浮かべ,「耳がだんだん遠くなる」というタイトルにつながった。この歌には「逢魔が時の恐怖」が込められているという解釈も有るようだが,私の場合,人生の「逢魔が時」を迎えていると言えようか。視力もだんだん衰え,小さな字は読めなくなった。歌は「今来たこの道帰りゃんせ」と続くけれど,『帰りたい帰れない』(加藤登紀子作詞・作曲)という曲も有った。
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酔えない酒

2012/01/26 19:13
 近年,酒が飲めなくなった。と言っても,経済的な理由ではないし,酒を不味く感じるようになったわけでもない。晩酌の焼酎は欠かしたことがないし,夕食後にはウィスキーのオンザロックを味わっている。しかし,体力の衰えで,気持ち良く酔えるまでに至れなくなり,酒で心の憂さを晴らしたり,恋する思いを紛らわせたりすることができなくなったということだ。
 酒を歌った歌謡曲は多い。検索サイトを見るだけでも,タイトルに「酒」が付いている曲は450曲を超えるし,歌詞の中に「酒」が含まれているのは4千数百曲に上る。そして,酒は,「心のうさの捨てどころ」であり,「かなしい恋の捨てどころ」でもある(高橋掬太郎・詞『酒は涙か溜息か』)。「忘れてしまいたいことや/どうしようもない寂しさに」酒を飲む(河島英五・詞『酒と泪と男と女』)。しかし,加齢とともに,そういう酒の飲み方はできなくなった。酔って楽しい気分になることも無い。
 「喜寿」と言い,「金婚」と言うけれど,それを祝いたい気持ちにはなれない。むしろ,今の暮らしでは,この先を思うと,ここまで生きてきたことにうんざりする気持ちのほうが強い。しかし,遺す家族のことを思えば,死に急ぐわけにもいかない。広くは国政の在り方から,狭くは自分自身の体調まで,憂えることは多いが,それを酒で晴らすことは無い。
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詐りの形

2012/01/14 20:55
 人を信用させて金品を詐取する行為を詐欺と言うけれど,犯罪行為ではなくても,心遣いの優しい人だ,愛情を持って接してくれる人だと,人には思わせていて,内心はクレバーで,心の冷たい人も在ろう。瀬戸内寂聴さんも語っている。「(出離前)人間の愛は無償とみえ、無私をよそおうものほど、自己愛の満足にすぎないように思われました。」(2012年1月12日付「朝日新聞・夕刊」『人生の贈りもの』)
 しかし,教師や医師などの場合,心の裡は見せないで,相手に信頼感を持たせるのもたいせつなことかもしれない。それも,一種の詐術と言えば言えようが,それで効果が挙げられれば立派な技術だし,それで通すことができれば,表向きの装いがその人の資質になっているとも考えられる。
 元オウム真理教の特別手配容疑者と17年間にわたって逃避生活をしていたという斎藤某は,いくつもの偽名を使って働いていたそれぞれの勤め先での評判は,なかなか良かったらしい。ということは,本来は,優しい心根の行き届いた人だったのかもしれない。
 詐術でも,バーブ佐竹の古い歌の文句ではないけれど,「どうせ私を騙すなら,騙し続けて欲しかった」(1963年『女心の唄』詞・山北由希夫)ということも有る。徹底できれば,それも,愛情の一つの形かもしれない。
 困るのは,騙し続けることのできない政治家の,その場限りのきれいごとを並べた言辞で,こればかりは詐欺師としか言いようが無い。
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家族葬

2012/01/10 19:50
 最近,世間一般には知らせず,肉親だけで葬送を済ませる「家族葬」が増えているように思う。昨年11月に亡くなった石堂淑朗さんのように,本人と遺族の要望で公表を1か月間控えていたという例も有るけれど,新聞に死亡記事が載る知名人で,「亡くなっていたことが判った」という形で報じられることが少なくない。
 私の近隣でも,ここ半年の間に亡くなった人の中で6人までが,あとで伝え聞いたことだった。道一筋離れているだけでも,日常の行き来が無いと,気付かないことが多い。まして,離れていれば,知らされなければ分からない。
 私の気持ちの中では浅からぬ縁を感じている人の場合,知ったあとで,遅ればせながら弔問に伺うことになるけれど,遺族には,私との縁の深浅までは判らない部分も有ることだろう。そう思うから,先日亡くなった旧知の葬儀に際しては,私の判断で,故人に深い思い入れが有ると思われる人には報らせて,「報らせてもらって良かった」と感謝された例も在った。
 私自身も,既に社会的な立場を考える必要が無くなった今では,他人に知らせるのは不要で,妻子だけで送ってもらえれば良いと思っている。離れて暮らしている二人の弟や親族にも,事後に知らせれば良いことだとさえ思うのだが,「なぜ知らせてくれなかったのか」とあとで恨まれたり責められたりしては,妻子が困惑するかもしれないから,難しい問題だ。
 気ままを言うならば,供物も要らない。死後に何を供えてもらっても,どうということは無い。まして,あまり好きでもない菓子や果物を供えられるのは御免だという気がする。しかし,これも,遺された人たちの気持ちの問題だろうから,我を張ってもしかたが有るまい。全てはあとに委ねて,成り行きを受け容れるしかないことだ。
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旧知の訃

2012/01/07 21:07
 新年早々の2日,50年を超えて交わりの深かった知人の訃報に接した。私がかつて勤めていた学校(私学)で,若いときから校長を輔佐して教務の仕事に携わり,私が大学を出て京都に赴任してきたときは,宿舎の手配をはじめ,親身に世話をしてくれた人だ。結婚するときも,実質上の仲人の役を果たしてもらった。それ以来,5歳年下の私をなぜか信頼してくれ,ときには,わが家まで来て,私の意見を求めた上で,事を進めることが多かった。
 私は気ままな性分なので,途中で3年間,学校を離れて他の職に携わり,復帰した後も定年を待たずに退職したけれど,彼は,最終的には(校長職には理事者が就くので)副校長を務め,ずっと学校の運営を支えてきた。
 ところが,8年半ほど前,突然,脳梗塞で倒れ,その後遺症で,四肢と言語が不自由になった。彼は,私と違って,学校への愛着も深かったので,その気持ちを汲んで,翌年から,私自身はそれまで出席したことの無かった同窓会に,介助を兼ねて同行し,会場内で車椅子を押したり,食事の介添えをしたりする役を引き受けることにした。その間の事情は,これまでにも,「旧教員としての同窓会」(2009.9.29),「介護に無用な遠慮」(2010.9.26)などのタイトルで記している。
 昨年秋の同窓会の際には,既に入院中の状態だったが,どうしても出席したいということで,30分の外出許可をもらい,病院が手配した介護タクシーを利用して会場のホテルまで出向いてきた。宴席には入らず,開宴前のひととき,私が付き添い,主だった出席者をロビーに呼んで,おぼつかない言葉ながら会話を交わした。思えば,最後のお別れをしたかったのだろう。その後,病状は一進一退だと聞いていたけれど,遂に帰らぬ人になった。
 「私自身があと何年続けられるか分からないことながら,彼が健在な限り,出席できれば良いと思っている」と前に書いたが,今年からは,それも不要になった。私も,彼が倒れた齢を既に超えている。
 これを書いている今日,俳優の二谷英明さんの逝去が報じられた。享年は同じ81歳だった。
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年頭御挨拶

2012/01/01 08:53
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年頭に当たり,今年の御多祥をお祈りいたします。
 「自分は老人の初心者なんだ」(自称五代目・立川談志)
 また年が改まりました。「悠々」ならぬ「窮々自適」の暮らしの中で,一年は速く過ぎ行きますが,このときだけは,「時」を感じさせられます。
 人生は全て初体験の連続で,後戻りしてやり直すことはできません。悔いや未練を残さず,自分の老いと向き合って行くしかありません。
   壬 辰 元 旦
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「絆」

2011/12/26 21:01
 今年は,「絆」という言葉が持て囃された。「持て囃された」という言い方は語弊が有るかもしれないが,一方では,親が子に危害を加える事件が続発し,去年の流行語にもなった「無縁社会」の情況はなお続いているし,大震災に関連した「風評被害」も,自己中心の発想に因るもので,被害者の立場を思いやる気持ちなどはまったく感じられないことだ。「絆」は,互いに支え合う気持ちが有ってこそ結ばれるもので,言葉の上だけで「絆」を言うのは,そらぞらしいことに感じられてならない。
 人と人との結び付きの中で,「善意」は有っても,「絆」と呼べるようなものがもともと存在するとは思い難い。「この町に住んで良かった」とか,「この学校に入って良かった」と感じられることは有ろうが,それは最初から唯一目指したものではなかったかもしれず,「良かった」と思える結果になったのは,その社会を構成する人たちの人格と組織作りに因るもので,人間関係を支える不断の実践に基づくことだ。たまたま出合った「つながり」が,「絆」と呼べるものにまでなる蓋然性は大きくない。
 「この人と知り合えて良かった」,「この人と結ばれて良かった」などと思うのは,相手の人間性に恵まれたことで,これも偶然に左右される要素が大きい。それは「縁」と言えるものだ。その「縁」を生かすのは,当人の生き方に係っている。そして,偶然に結ばれた「縁」を強い「つながり」にすることができたとき,はじめて「絆」と言えるものになるのだろう。
 自己中心で生きる人間の「つながり」が脆いものであることは,多くの事例が実証している。それゆえに,人は「絆」を尊び,求めるのかもしれない。「絆」を結び,保つには,他者を思いやり,手を差し伸べ合おうとする意思の力が必要で,それが有ってこそ,人間関係が「絆」と言えるものにまで高められることだろう。
 血のつながる親子の間の「絆」は,社会的な「絆」とは別の範疇のことだ。「この親の子として生まれて良かった」と子が思えれば,親子ともども幸せだが,子が一人の人格として成長すれば,互いの性格や考え方・生き方を否定する場合も起きるかもしれない。だからと言って,親子の血縁までを否定することはできず,好むと好まざるとに関わらず,断ち切り難い「絆」で結ばれている。しかし,不幸にして,それをも断つことになる場合も無いではない。
 子は,自分から望んで生まれたわけではないにもかかわらず,生まれたからには,人生の重荷を背負って生きなければならない。その子の生命に,父親としては「責任」を感じる。子より先には死に難いという気持ちにさえなる。母親は「運命」を感じるかもしれない。それに「情愛」が加わって,親子の「絆」は結ばれていると言えようか。
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歳末に思う

2011/12/22 19:21
 賀状をしたためる時季になった。
 今年の年頭の挨拶で,「後期高齢者と呼ばれる齢になり,体力,気力ともに衰えを感じるとともに,これまでのさまざまなお付き合いは,そろそろ絶っても良いのではないかと思い始めています。」「言わば,社会的な人生の『停年』という心境です。」「向後,音信が途絶えても,そのように御理解いただければ幸いです。」 と記したけれど,それでも,賀状を欠かせない人は在る。
 年に一度だけでも挨拶を交わし,近況を知らせ合いたい人に賀状をしたためるのは,決して虚礼ではなく,大切にしたい機会だと思っている。
 しかし,視力が衰えてくると,数10通の賀状を書くのも負担になってくる。近況を知らせ合うだけであれば,インターネットでのブログやメールで足りるのだが,安否を尋ねたい相手は,インターネットを使えない人が多いから,やはり手書きの便りを出さなければならない。手書きが辛くなる年齢の人ほど,パソコンを利用できれば良いと思うのだが,パソコンを活かす手助けのできる環境を,地域社会や家庭で作れないものだろうか。
 長年続けてきた社交ダンスのレッスンとウクレレ・サークルへの参加を昨年末で終わりにしたあと,体力や知力の衰えを防ぐために「これからの生き方」をどうするか,年齢相応に体を動かしたり声を出したりする必要を感じて,新しく始めることにしたのが,地域のコミセンで催される「唱歌教室」と,大型スーパーの中に在るカルチャー・センターでの「詩吟」と「演歌」の教室だった。「いずれも,徒歩で20分前後の所で,往復すれば運動にもなるし,費用もあまり掛けないで済む。月2回ずつで,合わせて6回,出掛ける機会が得られることになる」と,4月1日のブログに書いている。
 その後,「演歌」の教室のほうは,意に添わないところが感じられるようになったので,10月で辞めたことは前にも記したけれど,たまたま新しく開講されたばかりだった「詩吟教室」は,私の他に受講者が無く,それでも先生の好意で1対1のレッスンを9か月間続けてきた。ところが,会場になっていたスーパーが今年の末で改装拡張のためいったん閉じられることになり,なにしろ受講者が1人のこととて,別の会場に移ることなく,12月20日を最後に打ち切られると決まった。
 コミセンでの「唱歌教室」だけは続いているものの,新年からは,それ以外に,何かまた新しく取り組むことを見つけたいと思っているのだが,これというものがなかなか見つからない。
 人は常に自分の話を聞いてくれる相手を求めるもので,孤独な人の話の聞き役をするボランティアも有るようだ。私に向いている役割のようにも思えるのだが,身近にはそのような場が見当たらない。ときどき,宗教関係の話を持って向こうから訪ねて来る人が在るけれど,独善的な宗教の話などは聞きたくないので,頭から拒絶している。しかし,そういう人が宗教の世界に入ったのには,何か一身上の理由が有ったことだろう。そう思うと,宗教への勧誘などは御免を蒙りたいが,私の自己主張は抑えて,その人の話を聞いてあげるのも良いかもしれない。それが逆に,私個人としての宗教的な活動になるのではなかろうかと思うことが有る。
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小さな家族

2011/12/16 19:05
 「皆さまの小さなご家族に喜んで頂けましたら幸いです。」 庭に来る雀のための餌を購入しているネットショップの納品書に書き加えられていた一文だ。「小さなご家族」って誰のことかと一瞬迷ったけれど,雀のことだと分かる。しかし,雀は「家族」かしら?
 庭の木に来る野鳥に餌を与えて,集まってくるのを眺めたいと思いつき,枝に樋を渡し,餌を入れ始めてから2年足らず経つ。季節によってはイカルが来るときも有るし,鳩も来るが,主な客はやはり雀だ。メジロは食べる物が違うので,別の場所にふかし芋を小皿に載せて置いている。
 雀の数が減っていると,かなり前の新聞記事で見た。「約20年で6割減少」という調査結果も有った。生活環境の変化で餌や棲める場所が少なくなり,少子化が進んでいるのではないかとも書かれていた。わが庭に集まる雀は,田圃に稲が実るころはそちらに移動しているのか,一時減ったようだったが,今はまた多くなって,産卵期のあとには子雀を連れているときも有る。「雀のお宿」と言えば竹薮を連想するけれど,周囲に竹薮は減り,巣にできるような瓦屋根の家も少なくなって,どこに棲んでいるのだろうかと思う。
 個体数の減少と併せて,生態にも変化が見られ,鳩などと違って,もともと警戒心が強い鳥なのに,「人の手から餌を食べたり,ねだったりする群れが全国で見つかっている」という報道も読んだことが有るけれど,わが家の雀は,近くの木の枝や電線で様子を窺っているものの,庭に出て行くと一斉に飛び立ち,人の姿が見えなくなってから,餌場に折り重なるようにして食事に取り掛かる。餌を待っていて,喜んで来てくれるのは見ていて楽しいけれど,これでは「家族」という気持ちにはなれない。馴染んでくれることは無さそうで,少し淋しい。
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今年読んだ本

2011/12/14 19:28
 今年読んだ本を数えてみると,文庫や新書も合わせて14冊。視力の衰えのために読書量は減ったけれど,選んだ本は,全て読み応えの有るものだった。新聞の広告欄だけで選ぶのだが,読んでみたいと思って購入した本にまず外れは無い。その嗅覚は密かに自負していることだ。もっとも,内容の重いものは,最近は,読んで負担に感じられるようになったので避けている。
 勝目梓『死支度』(講談社),三上喬『ホームレス歌人のいた冬』(東海教育研究所),伊集院静『いねむり先生』(集英社),津村節子『紅梅』(文藝春秋)については,既に書いた。最近読み了えて印象が深かったのは,木内昇著『笑い三年泣き三月。』(文藝春秋9月15日発行)だ。
 「昭和21年、焼き払われたあとの東京で出会った男3人。岡部善造は旅回りの万歳芸人だが、一旗あげようと上京してきたお人よし。鹿内光秀は映画会社を解雇されたあと南洋の島に送られた、ひねくれ者の復員兵。田川武雄は活字中毒の戦災孤児。彼らは浅草のストリップ小屋に拾われ、ボロアパートで家族のように暮らし始める。」(文藝春秋web「担当編集者から一言」より)
 この3人のほかに,元は東宝の万年助監督で,戦中の体制を受け入れることができず退職,戦後,焼け跡の浅草に文字どおり貧弱な小屋を建ててストリップ上演を企てる杉浦保,住む場所の無くなった善造,武雄,光秀を自分の寝起きするボロアパートに引き取る,口の悪い光秀の言う「おかめ」な踊り子,風間時子(通称ふう子)にも存在感が有る。
 戦争で受けた傷を戦後もなお残す時代の人たちが寄り添って生きる姿を通して,善良な人間の善良なるがゆえの哀しみを描き出した秀作だ。
 背景には,戦後の世相,食料事情から政治や社会の状況,芸能史までがきめ細かく描かれている。作者は戦後20年以上経った1967年生まれであるにもかかわらず,いろいろな参考文献(巻末に記載)を利用したにせよ,この時代をよく捉えていて,並々ならぬ筆力が感じられる。
 その前に読んだ吉田修一著『平成猿蟹合戦図』(朝日新聞出版9月30日発行)も,ささやかな幸せを無法な力で奪われた者の復讐を発端にして,下積みの暮らしから力を合わせて立ち上がる人たちの姿を,政治とヤクザの世界を絡めて描き,よく出来たエンターテインメントだった。
 今読み掛けているのは,丸谷才一著『持ち重りする薔薇の花』(新潮社10月25日発行)で,年内には読了できるつもりだ。
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創作四字熟語

2011/12/12 19:28
 歳末になって,各分野で,一年を総括する催しが盛んだ。言葉の分野では,「ユーキャン新語・流行語大賞」(自由国民社「現代用語の基礎知識」選定),「今年の漢字」(日本漢字能力検定協会選定)などが話題を集めているけれど,私は,住友生命が募って今年で22回目になる「創作四字熟語」を,毎年,面白く見ている。「新語・流行語」や「今年の漢字」も,時代を反映するものではあるが,それに加えて,四字熟語の基礎知識を持った上でアイロニーやウイットを利かせた創作力を必要とするものだから,一部では漢字の簡略化が言われる中で,逆に,漢字の奥深さを感じさせられて興味深い。
 これまでに選ばれた作品にも,「皆老童欠」(1991年),「利息三文」(1993年),「高官無恥」(1996年),「万国胸痛」(2001年),「苦労長寿」(2008年)など,今日も変わらず通じるものが有るけれど,今年の作品の中では,「年々宰宰」と「才足兼美」に票を投じたい。
 「年々宰宰」は,首相が次々と変わる政界の状況を表しているだけでなく,元になっている劉廷芝の詩で「花相似」と続くことをも暗に含意しているように思われる。「才足兼美」は,「新語・流行語」でも大賞に選ばれた「なでしこジャパン」を,「才」,「足」,「美」と三つ並べて称賛しているのが見事だ。
 今年はいずれも,大震災に関連した言葉が多く取り上げられることが予測され,「今年の漢字」は,やっぱり「絆」に決まったけれど,その重い意味は,四字熟語で洒落るわけにはいかないものだ。
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デジタル放送時代

2011/12/09 19:30
 今年1年の間にわが家で変わったことと言えば,7月のテレビ放送全面デジタル化に対応するため,やむを得ず新しい受信設備を調えたことくらいだ。経緯については前にも記したけれど,出費を最少限に抑えるため,次の3つの方法を採った。
 アンテナの新設は避け,従来のままのアンテナ設備で受信することを前提に,まず,デジタル放送受信チューナー内蔵のレコーダーを私の部屋のモニターに接続,次に,妻の居室兼寝室用には,地上波デジタル対応の小型受像機を購入し,BS放送は,アンテナが私の部屋にしか繋がっていないので,レコーダーで録画したものを妻の部屋で観られるように,CPRM対応のプレイヤーを付けた。もう一つ,使用頻度の低い客間の古い受像機は,とりあえず簡易型のチューナーで繋いだ。
 ところで,デジタル化とともにBSデジタルのチャンネルが一挙に増えたけれど,有料のものはもとより,無料でも,特別な番組の外はほとんど観ることが無い。番組表を見ると,韓国ドラマとショッピング番組が多く,その間に旧作ドラマの再放送が挟まっているという感じで,私からすれば,電波と電力の無駄遣いだという気がしてしまう。
 旧作でも,優れた作品の再放送は意味の有ることだと思うけれど,多くは,変わり映えのしないミステリードラマが占めている。出演者の名前を見ていると,既に亡くなったはずの人を現存していると錯覚することが有る。映画であれば,製作や封切の年が分かっているので,そんな錯覚は生じないが,テレビドラマの場合,製作年度も分からないので,頭が混乱してしまう。
 テレビ局側にしても,チャンネル数だけ増やして,番組編成に苦慮しているのではなかろうかと思われる。韓国ドラマの氾濫は,テレビ放送が始まった時期にアメリカ産のテレビ映画やバラエティが人気を集めたことを想起するが,あの時代と比べて,今は,製作費を掛けないで済むというだけのことではなかろうかと勘ぐってしまう。
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野球シーズンの終わりに

2011/12/07 19:19
 プロ野球の日本シリーズでは福岡ソフトバンクが制覇し,アマチュアでも,今年最後の試合となる大学・高校の神宮大会が閉幕して,今年の野球シーズンが全て終わった。
 振り返ってみると,投打ともに抜群の総合力を持っていた福岡ソフトバンクの制覇は順当な結果だと思うけれど,全体的には,今年のプロ野球は面白くなかった。息詰まる投手戦というよりは,溜め息の出る貧打戦が多かったからだ。実況放送を見ていても,焦れったくなって,見続ける気を失った。あとで結果だけ分かれば,それで良かった。やはりプロ野球は,点の取り合いから生まれる緊迫感こそが面白い。いわゆる「統一球」の採用が影響したのだろうが,それでも打つ人は打っていたのだから,多くは力不足と言うしかない。
 もう一つ,今年のプロ野球をつまらなくしたのは,日本シリーズを除いて,延長戦に入って3時間半を過ぎれば試合を打ち切るという時間制限を設けたことだ。節電対策というやむを得ない事情が有ったにせよ,そのために,残り時間を考えて引き分けに持ち込むことを念頭に置いた消極的な試合展開が増えたのは,観客を楽しませるというプロ本来の意識を失ったものだった。
 アマチュア野球では,近年,タイブレーク方式で決着をつける試合が増えた。今回の神宮大会でも,大学の部で2試合,高校の部で3試合も,それが有ったけれど,選手や応援する人の身になってみれば,不完全燃焼の思いが残ったのではあるまいか。時間が勝負のうちのサッカーやラグビーならともかく,野球の試合が時間で管理されるのは味気無い。
 グラウンド外のことでは,巨人経営陣の内紛が見苦しい。年寄りの意地の張り合いという印象を持つけれど,背景には,GMによる人事に関する相互不信と,権限を巡る確執が在ったと思われる。
 人事についてのGMの権限という点では,新しくスタートを切った横浜DeNAのGMに高田繁氏が就任したのも気に懸かることだ。早速,候補として予定されていた工藤公康氏の監督人事が覆されたけれど,自己主張の強そうな人だけに,現場と協調できなかったときが危惧される。2008年にヤクルトの監督に就任したとき行ったチームの改革は成功した面も認められるが,氏が引き連れて来たスタッフからないがしろにされたというヤクルト生え抜きのスタッフの不満を聞いたことが有る。プロ野球の事情に疎いのではないかと疑われる経営者ともども,ベイスターズに愛着を持っているハマファンの気持ちを裏切ることが無ければ良いがと願う。個人的には,横浜でコーチやチーフスカウトを務めていた堀井恒雄氏の処遇がどうなるか,気になっている。
 ともあれ,FA選手の行方を含めた来年度の各チームの編成とシーズンでの成績を,興味を持って見守りたい。その一方で,今年も,戦力外を通告された多くの選手の今後の生活が思いやられることだ。
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逝った人

2011/12/04 19:57
 石堂淑朗さんの訃報が12月1日の各紙夕刊に載った。「11月1日死去。79歳。本人と遺族の要望で公表を1カ月間控え,葬儀は近親者のみで行った」とのことだ。
 「私の文筆の仕事は本書で終わりました。後は冥界で実相寺昭雄や今村昌平と会うだけです」と,『偏屈老人の銀幕茫々』(2008年3月25日・筑摩書房発行)に書いていたけれど,60代半ばでの脳梗塞,70代に入ってからの心筋梗塞を克服しながら,最期は「膵臓癌のため」という。
 同書の中で,渡辺祐介(映画監督)の晩年に触れて,「中年というか晩年に至って食習慣が変わるのは本当にヤバイ。」「膵臓か何か知らないが蛋白質消化に必要な分泌液が癌細胞の刺激で突然必要以上に出てきてトンカツが食いたくなるのだろうか。」 と述べていたが,当人の晩年はどうだったのだろうか。
 同書の「第一部 往時茫々」は,今村昌平をはじめ,時代を共にした仲間の死に遭って往時を回想した内容で,2006年9月〜2007年8月の雑誌に連載されたものだが,私は,才無くして,彼らのような思うがままの生き方はできなかったけれど,私なりに時代を共有したと感じる人の訃報に接するたびに,彼も書いているように,私もまた遠からず逝くことを思う。
 今年亡くなった著名人の中で,そのような感慨を喚び起こした人を偲んで,享年と,発表された病名とを併せて記しておこう。
 坂上 二郎=3月10日没,76歳,脳梗塞。
 児玉  清=5月16日没,77歳,胃がん。
 長門 裕之=5月21日没,77歳,肺炎。
 原田 芳雄=7月19日没,71歳,肺炎。
 立川 談志=11月21日没,75歳,喉頭がん。
 他に,和田勉(1月14日没,80歳),小松左京(7月26日没,80歳),前田武彦(8月5日没,82歳),北杜夫(10月24日没,84歳)なども,比較的年齢の遠くない人たちだ。
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わが家の紅葉

2011/12/01 19:54
 今年の紅葉は遅いと伝えられていたが,京都の紅葉の名所でも,今ようやく見ごろを迎えているという。
 わが家の狭庭の一本も,やっと色づいたところだ。
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冬の暮らしに

2011/11/27 19:52
 寒波がやって来て,老いの身には冷え込みが辛く,部屋に閉じ籠もり,本を読んだりテレビを観たりして過ごす時間が多くなる。「読書三余」という言葉が有る。読書に適した三つの余暇という意味で,「夜」,「雨の日」とともに,季節では,「冬」がそれに当たるという。しかし,視力の衰えで,目が疲れやすく,読書三昧というわけにはいかない。
 長時間,目を使っていると,字がぼやけて見えてくる。字画の多い字だとはっきり読み取れず,前後の脈絡で適当に読んでいるときが有る。時には,間違って読んでいることに気づき,目を凝らして読み直さなければならない。特に新聞の場合,その傾向が著しい。図書にしても新聞にしても,最近は漢字にルビが振られていることが増えたけれど,読者に対して丁寧な処置ではあっても,今の私には,ルビはまったく読み取れない。
 老眼鏡の上に掛けて使えるルーペが売り出されている。購入してみたところ,針穴に糸を通すときなど意外によく見えて,両手が使えるので便利だが,新聞記事を書き写すときは,新聞とノートとの間で焦点が変わるから都合が悪い。それでも,読むか書くか,どちらか一方だけであれば,手で持つルーペよりは広い範囲が見えるので,かなり楽だ。
 テレビの場合は,聴力の衰えで,言葉が聞きづらくなった。さすがにアナウンサーの言葉はよく解るが,ドラマやスポーツの解説などでは,明瞭な発音をする人と,そうでない人との差が大きく,十分に聞き取れないと,楽しみが半減する。バラエティー番組などは,やたら騒々しさが伝わってくるだけで,観る気になれない。
 補聴器を必要とする人は国内で約1,900万人とされるが,調整がうまくできないため,実用で使っている人は20%に満たないという。脳波を測る電極を付け,脳波の変化に応じて適切な増幅度合いを調整できる,個人差に対応したヘッドホンが開発され,2015年度の実用化を目指しているという報道が有った。それまで普通の暮らし方ができていれば,メガネ用ルーペ同様,少しは便利になるかもしれない。
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機械への不信

2011/11/24 19:33
 自動販売機が各所に設置されるようになって既に久しいけれど,最初のころは,機械が間違いなく計算して,望みどおりの商品を手にすることができるかどうか信用できず,専ら対面販売を利用していた。しかし,今では 自販機を利用しなければ手に入れ難い商品も増え,金融機関でもATMの使用を勧められる。
 一方では家電製品の自動化も進み,エアコンやAV機器など,リモコンでなければ操作できないものも多い。思いどおり作動するかどうか,もし故障したらどうすればいいのだろうかと,心配しながらも使っている。
 しかし,長年の間に,さすがに馴らされてきて,自販機やATMは,信頼して利用しているけれど,やはり間違いは起こるということを思わせられた。
 自販機でタバコを買ったときのことだ。前に比べて最近は喫煙量も減り,10日に一度くらいの間隔で5個ずつ,まとめ買いをしているのだが,440円×5個で2,200円入れたはずなのに,4個しか出てこない。詳しく言うと,自販機では一度に千円札1枚しか受け付けないから,初めに1,200円入れて2個,出てきた釣銭に1,000円足して3個,という買い方をしていて,硬貨を入れ間違えたのかと思い,財布の中の残金を調べてみても間違いないし,周囲を見回しても落としている様子も無い。確かめなかったので半信半疑ながら,思えば,初めに出てきた釣銭が少なかったような気がして,そうなのだと自分で決めてしまった。
 最近のタバコの自販機では,「商品を選んでください」「タスポをタッチしてください」という音声で導くものがほとんどだが,出先でたまたま利用した自販機は,そのメッセージも無かった。係員に連絡することもできない自販機では,確認のしようもなく,諦めて100円追加したけれど,割り切れない気持ちが残った。
 機械相手のほかに,いろいろな宣伝や人間に対しても,無条件で信じることができないのは,齢のせいで,新しいものに順応できなくなっているばかりではなく,敗戦による世の中の変動を9歳で経験した私の身に染み付いている疑い深さのせいかもしれない。
 それにしても,今の世の中,原発の問題を筆頭に,信用できないことが多すぎる。利益優先の企業にしても,自分に直接関わることしか頭に無い政治家や官僚にしても,機械と同様,全幅の信頼はできない。疑いつつも,世の流れに随って暮らすしかないということか。
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偏屈の思い

2011/11/19 21:05
 きょうは,地域のコミセンで月2回開かれる「唱歌教室」の日だったのだが,朝からかなり強い雨が降っていたので,往復30分余りの道中で足元が濡れるのが嫌で,欠席することにした。「唱歌教室」と言っても,参加は任意で,歌唱の指導者とピアノ伴奏者とはいるものの,毎回7,8曲ずつ,世話役が選んだ童謡や唱歌を皆で歌うだけのものだ。それでも,大きな声を出して歌いたいと思っている人たち(ほとんどは高齢者なのだが)は多いようで,多いときには百人を超える。
 私も,大勢の中で歌っていれば済むことだから,大きな声で歌う良い機会だと思い,4月以降休まず出掛けるようにしてきたけれど,きょう気が進まなかったのは雨のせいばかりではない。
 コミセンの開館30周年の記念行事が来週催されることになっていて,企画担当者の依頼で,その開会に当たって「唱歌教室」の男性メンバーが市歌を斉唱する予定が組まれていることに,単なる同好会の参加者がそういうセレモニーの表に出なければならないのかと,私の偏屈性が頭をもたげてきた。
 楽しく歌いたいという思いだけで参加している私にとって,会長とされている老人の毎回の冒頭でのもったいぶった挨拶や,指導者が時折,曲にまつわる解説や思い出などを喋るのには,うんざりしながら聞き流しているものの,今回はセレモニーだから,市の要職者の挨拶も有ることだろうし,私自身が,詞も曲も今一つの感の有る市歌を,黒ズボンと白シャツという服装を整えて壇上で「歌わせられる」のには,御免を蒙りたい気持ちが強い。
 きょう顔を出せば,当日に向けての練習や打ち合わせなども有ろうから,気の進まないのを無理して出場するよりは,きょうから休んでおいたほうが良かろうか,という思いが無かったとは言えないのだ。
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知人の安否

2011/11/17 20:51
 11月も後半に入り,喪中に因る年賀欠礼のはがきが届き始めた。亡くなったのは高齢の父母などの場合が多く,知友本人についての身寄りからの訃報は今のところ無いけれど,互いに齢を重ねている身で,久しく音信不通だと,安否が気に懸かる知友も何人か在る。といって,こちらからも便りをしていないこととて,賀状を交わす新年までは様子を見るしか無かろう。
 一方で,老若を問わず,ホームページやブログの上だけでの知人の場合,書き込みが長らく途絶えていると,何か変わりが有ったのではないかと案じられるが,確かめるすべが無い。私自身は,健在を証明するつもりも有って,何日かごとにはブログを記すようにしているけれど,インターネットのできない老いた友人たちには役立たないことだ。
 二人の息子は,それぞれツイッターを使っているので,便りが無くても,動向を窺うことができる。忙しそうにしていれば,健康を気遣いながらも,ひとまずは安心していられる。東京で仕事をしている長男が「at とんかつ(の店名)」とか,名古屋に出張した次男が「みそカツ」を食べて「うめぇ」などと書き込んでいると,肉好きの私としては羨ましく思うことも有る。
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秋が行く

2011/11/14 19:14
 「彼岸が過ぎ,ようやく暑さが緩んできたこの時季,そろそろ,外での活動を開始しなければなるまいと思っている。」 と書いたのは9月末(26日)のことだが,いつの間にか,秋がもう行こうとしている。
  「外での活動」とは,徒長した庭木の枝の伐採など,庭に出ての作業のことで,年々体力の衰えが感じられ,高所での作業がしだいに心もとなくなってきて,来年のことは自信が持てないので,今年こそは思い切り幹を低く伐採しておかなければなるまいと思って取り掛かったけれど,高い所に上がって無理な姿勢で一時間も仕事を続けると,目まいや吐き気に襲われたりして,なかなか捗らない。伐採した枝や葉の処理まで入れると,一本の樹に二日も三日も掛かり,そのあとには休養日も必要だ。
 僅か数本の樹のことながら,休み休みの仕事で,気が付けば,秋は短く,もう冬が近い。小学校や幼稚園の運動会も,いつの間にか終わったようだし,紅葉狩りの季節も過ぎようとしている。知友からもらった便りに返事を書こうと思いながら,さして言うべきことも無いままに日数を費やしているけれど,ときの経つのが速く感じられるのは,齢のせいなのだろうか。
 姪が結婚したり,甥に赤ん坊が出来たりしたのが,ついこの間のことだと思っていたら,もう1年が経っているのを知らされる。逆に,携帯電話を新しい機種に変えてから数年過ぎたような気がしているのに,まだ1年に満たないということも有る。高校の同期会で旧友たちが集まったのが去年の秋だったというのも,ずっと前のことのような気がしてならない。これは,ときの経つのが遅いということになるのだろうか。やはり,ときの経つのが速いから,自分のことでは,近いことが遠く感じられるということなのかもしれないと思いつつ,冬を迎えようとしている。
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