ShoGのボヤキ念仏

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zoom RSS 記憶の覚束無さ

<<   作成日時 : 2006/05/29 19:38   >>

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 最近の私の気持ちは,中学生のころのそれと共通するところが多くなっているように感じる。具体的にどこがどうという比較・検証をしても詮無いことなので今は措くが,その後,後天的に身に着いた社会的な性格が,老いて,しだいに剥がれ落ち,人格の形成期とも言える少年のころの私の本質的なところに本卦還りして行くのではないかと思われる。
 それかあらぬか,ふと,少年のころの記憶を辿っているときが有る。懐旧というのではなく,あのときのことは果たしてどうだったのだろうと,確かめてみたい感情である。ところが,その記憶が意外に不確かだったり,思い出せなかったりすることが多いのに気付き,記憶というものの頼り無さに愕かされる。
 戦中の疎開生活から引き続いて,高校を卒業するまで,母の実家の在った瀬戸内海の島で暮らした。祖父が村の畳屋に作業場として貸していた小屋が空いたのに手を入れて,母子3人の仮住まいにしていたのだが,あの建物の改装費用は誰が出してくれたのだろうか,そんなことが今になって気になってくる。父が戦死したあとの敗戦直後の我が家の暮らしに,経済的な余裕はまったく無かった。祖父も,たまたま出向いていた広島で原爆に遇い,行方も知れぬ死を遂げていたから,祖母か伯父かが手を差し伸べてくれたのだろうかと思うけれど,それを確かめようにも,母が亡くなった今では,その術が無い。
 母に確かめたいと思うことは,今にして,他にもいろいろ出てくるけれど,已にどうしようも無いことだ。
 6畳2間?の暮らしだったはずだが,2階が在ったような気がし始めて,有り得ないことだと打ち消しながら,狭い階段の様子が目に浮かんできたりする。
 怠惰な日々,よく,トランプのゲームや占いで独り遊びをしていた覚えが有るけれど,その遊び方がどうしても思い出せない。齢のせいで記憶に空白が生じてきているのかと不安にもなる。
 ちょっとした必要が有って昔のノート類を探していたら,古い日記が出てきた。開いてみると,思いがけない記述が有る。人の心に纏わる重い事実なのだが,すっかり忘れてしまっている。
 新聞で読んだ,前・マリナーズの長谷川滋利投手(現・解説者)の話(4月22日付「朝日新聞」・生島淳『読み・解く スポーツ』),毎日のトレーニングや登板内容を克明に記録するのは「書くことで記憶の定着が変わるからです」「人間はノートに書かないと、自分の都合のいいように勝手に記憶を変えることがあるし、書いておくことが重要だ」という言葉が想起される。
 私のノートは,死後,他者の目に触れてはならないものだ。処分しておかねばならぬと思いつつ,記憶が覚束無くなるほどに,私にとっての貴重な記録だという未練が残って,まだ処分しかねている。

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