ShoGのボヤキ念仏

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<<   作成日時 : 2008/04/28 20:06   >>

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 最近の世の中,私としては判断を決めかねることが多い。割り切れない気持ちでいるので,「ボヤキ」を書くにも気が進まない。そのことをボヤくしかないか。
☆その1☆
 幸せに暮らしていた肉親を突然無惨に殺された家族としては,八つ裂きにしても飽き足りないことであろう犯人に,裁判の結果,死刑の判決が下される。犯人のほうにどんな情状が有るにしても,無辜の命を奪う残虐な行為は許し難く,社会の害にしかならない人間は,直ちに死刑にしてしまえば良いという気持ちになる。
 しかし,そう短絡的に極め付けて良いものだろうか。そういう感覚を基にすれば,生きていても社会の益にならない者は早く死んでしまったほうが世のためだという考えにもつながることではないかと,自分の思いに対する疑いが生じてくる。
 もう一つ解らないのは,判決に当たって,刑の軽重に関わる判断材料として,反省の情の有無が採り上げられることだ。どれだけ反省しているかという当人の心の内が,他人にそう簡単に判断できることだろうか。また,いかに反省したとしても,犯した行為は動かし難い事実として残ることで,罪の決定には,情状を考慮する必要など無いのではないかとも思う。心神耗弱などを理由に刑を減じることにも疑問を持つのだけれど,これも,全ての人に,守られなければならない人権が在るという観点に立てば,即断できないことになる。
 かくて,私の思いは,行きつ戻りつしている。
☆その2☆
 スポーツと政治とは切り離して考えなければならない,という意見が有る。しかし,スポーツが文化であるとともに,政治もまた,文化を根底にして成立し,文化を大切にするものでなければなるまい。国家権力の意志に背く者の権利や文化を力で踏み躙るような政治体制の下では,文化としてのスポーツは成り立たないと思われる。そこでは,スポーツが国威発揚の手段として利用され,多くの国民が「愛国心」という排他的な感情に支配されるだけだ。
 文化国家とは言えない政治体制や,それに誘導された民衆の意識の下で行われるスポーツの世界大会では,開催する意義が無く,オリンピックにしても聖火リレーにしても,認める気持ちになれない。協力するのも,参加するのも,ナンセンスなことだ。
 そうは思うものの,そう言い切って良いものかどうか,いささか迷うことだ。正に政治とは切り離して,純粋にスポーツに打ち込んでいる人たちも在るし,スポーツを通して友好が深められる可能性も残っているからだ。
 それにしても,政治だけでなく,近年は,商業主義に利用される面の大きい在り方にも疑念を抱き,オリンピックを心から讃える気持ちにはなれないでいる。

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