ShoGのボヤキ念仏

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<<   作成日時 : 2011/04/27 19:45   >>

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 「新しい暮らし方」と題した4月1日の記事に,「新しく始めることにしたのは,コミセンで催される『唱歌教室』と,カルチャー・センターでの『詩吟』と『演歌』の教室だ」と書いた。通い始めて1か月が経とうとする今,それぞれの教室の実態が判ってきて,意に満たないことも少なからず有る。
 「唱歌教室」は,歌っていれば良いことだから,幹事の毎回のもったいぶった冒頭の挨拶は我慢して聞き流すとしても,受講料を払って通うカルチャー・センターのほうは,それでは済まない思いを抱く。
 「詩吟」の教室では,課題とする漢詩の解釈と鑑賞を一々聞かされるのには,いささか閉口するけれど,受講生は私だけではないのだから,やむを得ないことだと思っているし,詩吟そのものの指導については,その流派に従った習得に努めるつもりでいるものの,しかし,中には首を傾げることも有る。例えば,絶句の説明で,第三句を「天句」呼び,「一気に盛り上がる所だ」と言う。詩吟の技巧としてはそうなのかもしれないが,「文章を書く作法でも『起承天結』と言います」と言われると,それは違うのではないかと思わざるを得ない。「起承転結」はもともと漢詩の絶句の構成法から生まれた言葉だろうが,「転句」は,「起句」「承句」と続いてきた詩の流れを「転換」させる句のはずだ。そうでなければ,文章構成の作法としての「起承転結」の意味は失われる。
 「演歌」のほうで疑問を持つのは,その曲を歌っている歌手の歌い方に合わせた指導をされることだ。「演歌」は,楽譜に忠実に歌うというよりも,歌い手の個性による思い入れで歌うものだと思うけれど,私には,楽譜を基にした上での,私なりのキイも有れば歌い方も有り,歌手の物真似を習いに来ているわけではないという気持ちになる。家で,歌手の歌い方を聞いて練習するようにと言われるけれど,それであれば,曲はパソコンでダウンロードできることだし,自分の気に入った曲を歌っていれば済むことで,わざわざ教室に通う必要は無い。
 最近の,特に男性の演歌は,詞も曲もパターン化していて,いたずらに技巧的なものが多い。演歌が大衆に好まれる根底にはカタルシスが有ると思うのだが,作詞家では,石本美由起,吉岡治,星野哲郎,既に亡く,作曲家でも,市川昭介,遠藤実,三木たかしを喪い,船村徹も老いた今,新曲の多くは,「歌の心」と言うか,胸に染みるものが不足しているので,歌に気持ちを込めにくい。教室の若い先生に,はたして「演歌の心」が解っているのだろうかと,疑う気持ちになってしまう。
 何においても,人に教えるということは難しい。教える内容についての知識や技量が必要なことは言うまでもないが,それに加えて,指導者としての資質が求められる。しかし,採用試験が有るわけでもない,巷に溢れる各種の教室の指導者に,それを求めるのは無理なことだとは思っている。要は,それでもなお受講を続けるかどうか,自分の判断に掛かっていることだ。

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