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zoom RSS 「絆」

<<   作成日時 : 2011/12/26 21:01   >>

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 今年は,「絆」という言葉が持て囃された。「持て囃された」という言い方は語弊が有るかもしれないが,一方では,親が子に危害を加える事件が続発し,去年の流行語にもなった「無縁社会」の情況はなお続いているし,大震災に関連した「風評被害」も,自己中心の発想に因るもので,被害者の立場を思いやる気持ちなどはまったく感じられないことだ。「絆」は,互いに支え合う気持ちが有ってこそ結ばれるもので,言葉の上だけで「絆」を言うのは,そらぞらしいことに感じられてならない。
 人と人との結び付きの中で,「善意」は有っても,「絆」と呼べるようなものがもともと存在するとは思い難い。「この町に住んで良かった」とか,「この学校に入って良かった」と感じられることは有ろうが,それは最初から唯一目指したものではなかったかもしれず,「良かった」と思える結果になったのは,その社会を構成する人たちの人格と組織作りに因るもので,人間関係を支える不断の実践に基づくことだ。たまたま出合った「つながり」が,「絆」と呼べるものにまでなる蓋然性は大きくない。
 「この人と知り合えて良かった」,「この人と結ばれて良かった」などと思うのは,相手の人間性に恵まれたことで,これも偶然に左右される要素が大きい。それは「縁」と言えるものだ。その「縁」を生かすのは,当人の生き方に係っている。そして,偶然に結ばれた「縁」を強い「つながり」にすることができたとき,はじめて「絆」と言えるものになるのだろう。
 自己中心で生きる人間の「つながり」が脆いものであることは,多くの事例が実証している。それゆえに,人は「絆」を尊び,求めるのかもしれない。「絆」を結び,保つには,他者を思いやり,手を差し伸べ合おうとする意思の力が必要で,それが有ってこそ,人間関係が「絆」と言えるものにまで高められることだろう。
 血のつながる親子の間の「絆」は,社会的な「絆」とは別の範疇のことだ。「この親の子として生まれて良かった」と子が思えれば,親子ともども幸せだが,子が一人の人格として成長すれば,互いの性格や考え方・生き方を否定する場合も起きるかもしれない。だからと言って,親子の血縁までを否定することはできず,好むと好まざるとに関わらず,断ち切り難い「絆」で結ばれている。しかし,不幸にして,それをも断つことになる場合も無いではない。
 子は,自分から望んで生まれたわけではないにもかかわらず,生まれたからには,人生の重荷を背負って生きなければならない。その子の生命に,父親としては「責任」を感じる。子より先には死に難いという気持ちにさえなる。母親は「運命」を感じるかもしれない。それに「情愛」が加わって,親子の「絆」は結ばれていると言えようか。

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