霊魂の存在
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作成日時 : 2013/06/03 19:27
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「英国隊の初登頂から今年で60年。今は天界に昇ったヒラリー卿も、冒険心を失わぬ80歳のがんばりを見守ったことだろう」。三浦雄一郎さんの史上最高齢でのエベレスト登頂に関して書かれた5月26日付「朝日新聞」『天声人語』の中の一節だけれど,「天界に昇ったヒラリー卿も、〜見守ったことだろう」という表現が気に懸かる。
先に亡くなった肉親や仲間が「見守っている」とか,前後して亡くなった人同士が天界で「出会っていることだろう」とか,言わば「決まり文句」としてよく使われる表現だが,そんなことを第三者が言えるのだろうか。
今月4日は母の祥月命日だ。亡くなって11年になるけれど,今の私や家族のことを,母はどう見ているのだろうかと思うときが有る。しかし,それは,私が自分を省みて思うことであり,母の心情を偲ぶことであって,必ずしも霊魂の存在を信じているわけではない。母は私の心の中で生きているということだ。父や母の霊に限らず,神仏にも,縋ったり願ったりする気持ちは無い。全ては自分の心の在り方の問題だ。
新井満さんの詩曲で知られた『千の風になって』は,遺された人の気持ちに寄り添ったものであったから,多くの共感を呼んだと言えよう(関連記事:2006年4月22日記載)。高校野球の報道で,活躍した選手の,先立った親兄弟に対する思いを記事にしている場合もときに見かけるけれど,これは,いささか感傷的な筆致が気になることは有るにしても,当人の心情を伝える扱いになっていれば,まだしも容認できる。
しかし,死後の霊魂について,その存在を他人が勝手に憶測して言うのは,虚辞に過ぎず,疑問に思う。まして,宗教的心情とは関わりの無い,社会の公器としてのマスコミの記者が,記事の中で軽々しく表現するのは,控えるべきではないか。
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