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zoom RSS 百日紅の花咲けば

<<   作成日時 : 2017/08/25 15:04   >>

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 今年もサルスベリの花が咲き,「百日紅」の名のとおり,7月以来長く咲き続けて,夏を感じさせている。広島では.キョウチクトウとともに「原爆の花」と呼ばれている花だ。広島に原子爆弾が投下されて全市が焦土と化したあと,草木も二度と生えないと言われた中で真っ先に蘇り,毎年,原爆の日の8月6日を中心とした時季に咲き続けている。
 戦後22年,1967年に広島テレビが製作したセミドキュメンタリードラマ『百日紅の花』でも広島の「生」を象徴する題名になっている。これは,原爆を詠った広島の詩人として知られる栗原貞子の『生ましめんかな』から材を取ったドラマだ。
 栗原の詩は,こわれたビルディングのローソク1本ない暗い地下室の夜,「生ぐさい血の匂い、死臭」ただよう地下室をうずめている原子爆弾の負傷者たちの中で産気づいた若い女から新しい生命を誕生させた一人の産婆の姿を描いている。詩では「『私が産婆です。私が生ませましょう』と言ったのは さっきまでうごめいていた重傷者だ。かくてくらがりの地獄の底で 新しい生命は生まれた」と有る。テレビ番組は,そのとき生を得た娘と母の22年後の姿を,ドキュメンタリードラマとして捉えていた。
 「これまでにも何度か書いたことだけれど,8月は,父と祖父が亡くなった月だ。1944年8月,海軍軍人だった父は,乗艦が米潜水艦の魚雷攻撃を受け,沈没した艦と運命を共にした。そのあと,遺された母と子で戦火を避けて疎開した母の実家で一緒に暮らしていた祖父が,1年後の8月6日,たまたま所要で出向いていた広島で原子爆弾の投下に遇い,還らぬ人になった。父も祖父も,家族の許には遺骨すら戻って来なかった。私の記憶の中には二人とも今も生きているけれど,14年前に母が96歳で亡くなったあと,思い出を語り合い確かめ合える相手がいなくなったのは寂しいことだ。」(2016.8.15「亡き人を偲ぶ八月」より)
 父の戦死は,職業軍人として当然受け入れなければならなかったことだけれど,当時71歳だった祖父の思いがけない死は,祖父だけのことに止まらず,その後の私たち母子の暮らしに大きな影響を及ぼしたことだ。もし,もうしばらく祖父が生きていたら,私の人生も,今とはまったく違うものになっていたかもしれないと思わせられる。
 かくて,百日紅の花が咲くと,私は私で,「今年も生き長らえて夏を迎えた」という思いで眺めるのだ。

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コメント(2件)

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空青し紅(べに)持つ拳高々に あの日に捧ぐさるすべりの花
いざよひ
2017/08/26 19:55
深読み勝手解釈 百日紅はその年に伸びた枝の先に花が咲き、手入れ良く毎年剪定すると、そのところが握り拳のように膨らみますから、そこから数本の花が開くと、百日紅の枝が花を握って空を仰ぐ形になります。そこで本歌はこれを鎮魂に見立てたのでございましょう。
岡目七目
2017/08/27 20:11

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