老いの願望

 「人間はなぜ死ぬのでしょう」「千年も万年も生きたいわ」と嘆いたのは徳富蘆花『不如帰』の中の片岡浪子だけれど,明治の悲劇のヒロインではない私は,「人生100年」と言われる現代でも,百歳まで生きたいとは思わない。逆に,高齢者の貧困が問題になっている今の世の中で,すでに人生を終えていても不思議でない年齢に達して,「安楽死」「自然死」を願いつつ,「人間はなぜ死ねないのでしょう」という思いのほうが強くなっている。今のところまだ「健康寿命」だけは保っていると思うものの,無為の暮らしで老いてなお生きる意味はどこに有るのだろうかと考える。
 この先も生きていくための条件は,今の暮らしの中で私が持っている願望だけで,それが家族の役に立つとは思えない。家族にしても私の死を願っているわけでは無かろうが,私と家族との願望は分けて考えてみる必要が有るのではないかと思う。
 そこで,私の願望を整理してみるとしよう。
 まず,生きて行く上で,「食」は欠かせない。そのためには食材を購入し調理しなければならない。食材の入手手段は,近隣の店舗か通信販売に依ることになろう。調理は自宅で熱源,水源を利用できることが必要だ。これらに関しては,今のところまだ妻に頼ることができているが,この先どうなるか予測は不可能だ。
 次いで,健康を維持して行くためには「医」に頼らなければならない。ここ数年の間に次々と既往症を重ねた私の場合,引き続き定期的な検診や治療を受けに出向く必要が有る。また,その他にも,日常生活を送る上で行政・金融機関等に行かねばならないことも多々有る。近隣の店舗に行く場合も同様だが,暮らしの中での自力による外出は,交通機関を利用する時間も含めて,最近では体力的に2時間が限界だと感じられる。この点では,週に2回程度,音楽関係の趣味の集まりに出掛けて行くことを気持ちの張りにしている妻の場合も,同じではなかろうか。
 体力面では,家屋や庭の清掃,手入れなどの作業もそろそろ限界を感じるようになってきている。といって,現在の家で暮らすからには,経済上の事情も有り,誰かに頼るわけにはいかない。全てを子の世話にならなければならない時がいずれは来るのだろうと思うけれど,自我を放棄してただ生きているだけという暮らしをする気にはまだなれそうにない。
 今の私が自我を保つ手段は,メディアを通じて社会とつながり,インターネットで日々の思いを発信して行くことで,それが唯一の「生きている証し」かもしれないと思うので,命の有る限りは,それまでを失ってしまうことには耐えられないし,インターネットは,光熱費等の確認や支払いの面でも今や必須のものになっている。
 いっそ適当な時機に自然に生が途絶えるのが最もありがたいことだと思うのだが,それまでに,老いた親の面倒を看なければならない子の負担を考えると,介護を初め,どれだけ手が掛かるかと案じてしまう。そこで「人間はなぜ(思うままに)死ねないのでしょう」という命題に直面するのだ。
 死んでしまえば,事は簡単かもしれない。この場で言いおくことではないけれど,あとは公共料金の名義変更の手続き等が有るだけで,物品等については,家族として残しておく意味の無い物は,処理の全てを業者に一任する,葬儀,死後の供養,いま在る墓所,仏壇などは,遺った者の考え方に任せれば良い,と思っている。私としては,それまでの生きている間に,前述したような願望がどれだけ叶えられるかということが問題なのだ。

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この記事へのコメント

いざよひ
2019年03月10日 20:26
老ひぬれば昔手折りし梅の花 たづね参らむありやなしやと
岡目七目
2019年03月11日 20:29
深読み勝手解釈 「ありやなしやと」とあれば伊勢物語にある在原業平の<名にし負はばいざ言問はむ都鳥わが思ふ人はありやなしやと>と言う歌が直ちに連想されます。第5句が全く同じ表記ですから、当然この歌を本歌取りしたものとすると、「梅の花」は<わが思ふ人>となります。「手折りし」とはどの程度でありましょうか。いや顔が火照ってまいりました。尤も、今お会いになっても御茶飲み友達の程度を超えようとしても叶わぬことでありましょうが、上手にお年を召された御茶飲み友達とのお付き合いなら、寿命が10年も伸びることでありましょう。

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